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2015.03.06 物部氏素描。
古代史には幾つかの重要なテ一マがあるが、その一つに「物部氏」がある。気まぐれではあるが、ふと思いつたので忘れないうちに記しておこうと思いった。

古代史に於いて、物部氏の役割は大きい。諸説があるが物部氏の本願地は遠賀川下流域・芦屋周辺であろう。
渡来民族か先住民族か区別すれば、高良大社の大祝が物部氏で小祝が安曇氏だと言われ、氏神を高良玉垂命を主神とすれば、朝鮮系の強く思われるが、元より北九州は人種の坩堝で黒潮に乗って中国江南・南島の氏族が、朝鮮半島から島沿いに新羅や百済、そして縄文古来の先住民族が割拠する。そういう意味では、一つの要素で人種を決められない特殊な地域である。

私は物部氏の呪術的要素を加味すれば縄文時代から続く呪術者の後裔も捨て難く、朝鮮氏族と先住民族の融合した結果が現れたと考えている。

高良大社の高良玉垂命はニギハヤヒ命に譬えられる説がある。私もその説を支持します。ニギハヤヒは新羅系の渡来人と縄文系の先住民の融合民族だと思われますが、八世紀の大和朝廷が朝鮮系の皇孫の要素が強い事を思うと、最初に北九州から大和に進行したニギハヤヒ命は物部氏を率いて大和の長髄彦と和睦して妹の御炊屋姫を娶って君臨する。
当時の大和は単一民族ではありえず、磯城氏・猾氏・国巣・土蜘蛛族などが蛮居する連合国でそれらの氏族を率いて統率していたのが長髄彦であったろう。

そのニギハヤヒ命の子孫が宇摩志麻始命だというのは興味深い。宇摩志麻始命は「日本書紀」によれば、長髄彦を裏切り、神武天皇を勝利に導く。だが、継体紀では天香語山と美濃・信濃・越を平定して宇摩志麻始命はさらに丹波を経由して出雲の岩見へ流れ着く。

出雲・岩見には物部神社があり、そこに宇摩志麻始命は祀られることになる。これは左遷であろう。

物部神社は出雲二の宮で古来から出雲大社と争っていたという。それは古来、物部氏が出雲に居住していたと考えるれ、その素地があったからこそ、宇摩志麻始命が受け入れられた要素であったと思われる。
それは崇神紀で出雲神宝の管理者であった出雲振根が筑紫に出向していた事実や少々信憑性には掛けるが、川内伝承で出雲の主神・大穴持命とニニギ命の確執が伝わっていて、九州と出雲の交流が顕著であった事が窺われる。その伝達機関は丸木船であったと言うのが通常であろう。その際、黒潮が重要な要素であり、薩摩・野間半島がかこいノ原遺跡から出土した丸ノミ式石斧がBC一万年前から丸木船製造に使用されていた可能性が窺われ、一定の文化圏を形造っていた。その影響は出雲にまで波及していたと思われるのは容易に推測される。

北九州の有力氏族は言うまでもなく物部氏であろう。古事記でも、わざわざ神武天皇は遠賀川流域の芦屋に一年も滞在している。それは物部氏との調整期間であろう。海流の流れは逆流でわざわざ芦屋に立ち寄る根拠は薄い。それは物部氏とも融和と言う理由があったからだと私は推量する。

その物部氏が出雲の氏族との交流が顕著であったことを証明しているのである。

物部氏は旧来から呪術的要素の濃い種族で、爾来、警備・軍事の職掌の背景は神との交流のある神人的要素が囚人や巫女との決罪をも管理していたと思える。それは出雲の神霊的な国情と合致していて同族的な思想合意があったのであったのであろう。

神武天皇が奈良の山戸(やまと)を征服した時、大和としたのは、奈良の山戸(御輪みわ)と北九州の倭(和わ)とを統合した大きな和・大和としたと考えられないだろうか。

その大和が旧より、物部氏が最初に大和を長髄彦と融合し、後に神武天皇が征服したとの構図が初期大和王権であったのだろう。
そして、物部氏が大和朝廷から締め出され、出雲の岩見に追放されたという仮説の成り立つと私は考えます。
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