上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
私は「かぐや姫物語」を見損ない、今日TVで観劇した。

半ば感心して、半ば不満を持った。

先ず、気がついたことは映画では母を「おうな」としているが、古代後では「おみな」であろう。つまり「おきな」の「き」は男であり、「おみな」の「み」が女なのである。「おうな」が重要な役柄であるのだからその点は正確に使って欲しかった。

この映画のテ一マが「自然と人為」であり、最後にかぐや姫が叫ぶ「天地<あめつち>よ私を受け入れてくれ」であり、森羅万象、「生きとし生きるものに心がある」とかぐや姫は言い残して月へ去った。それが監督の言いたいことだったのだろう。
それにつけても「勝かみかざり}と「天羽衣」は中国の西王母と天女の折衷を思わせ、混乱があったような気がする。その根底に<創生>があるにせよ、私には奇異に映った。

かぐや姫は月で罪を犯し天を追われたのが原因だったはずである。私はその原因に興味があるのだが紀貫之(作者だと言われる。かな書き作者の始祖)は巫女に造詣があるはずで、月が占いの霊地だと想像すると、その掟を破った「巫女」のような気がする。
大体、「かぐ」には輝くという意味と金属の意味も持つ。「かぐ」と言えば、天香具山を思い浮かべる。一説には香具山は「赤い山」であり、鉄の山であると言われ、物部氏が金属の利器で邪気を祓ったというように「鉄」には邪霊を祓うと言う。「かぐや姫」はその霊気を背負っていたともいえる。
何れにせよ。かぐや姫は霊的な巫女であろう。巫女の始原は天女であり、天女の故事としては「丹後国風土記・逸文」に見えるように天羽衣を失った巫女である(風土記では豊受命とされている)。

私はそこで巫女の考察がこの映画ではかけているような気がする。それは現代的思考と古代的思考の混交が映像の物足りなさを示しているような気がする。
自然性への回帰は優れた提示ではあるが、それなら古代の呪術への考察を映像の根底に示すべきで、私は四年前の大震災を思うに人間が大自然の猛威」たいしては祈るより方法がなく、日頃、素直に自然に順応する事が大切なのを学んだ。その具体的映像が私にはこの「かぐや姫物語」に欲しかった。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://nigihayahi91.blog65.fc2.com/tb.php/838-a55eedc1
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。