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「古事記」「日本書紀」を学んで5年の歳月が経ったが、比較民俗学や文献学を見ているとかなり広範囲の世界を検証し比較する。それはそれで重要な学問ではあるが、何故か消化不良の感を思わせた。

私が知りたいのは、「記・紀」の編者たちがどの地点で物を考え、その知識量がどのくらいであるのかを知りたいのである。
すると、ギリシャや中国・はたまた東南アジア・北アメリカまでその食指を伸ばす知識慾に疑問を持つ。
私の好奇心はそれはそれで興味津々だが、「記・紀」の本質を見失っているような気してならない。八世紀の識者は精々、中国の周辺を彼等のテリトリ一に充てているのだろうし、それ程広範囲に物事を言及していないように思われる。

広く深く物事を研究するのは困難である事に気ずく。例えば、「八俣の大蛇」を調べるのに様々の視点から検証する。その精力や並大抵のことではない。環境には、自然や人的影響があり、そこから生まれる事象はかなりの労力を必要とした。それでもなお、不満感は残る。
世界の神話・説話には相当広く、深い史実が横たわっているはずで、それを紐解くにはそれ自体の研鑽が必要であろう。すると、個人の作業だけでは限界を感じざるをえない。と言うことは、個々の事象の研究者の選択を確かなものとしなければならないし、その選択に左右され、真実が拡散してしまいかねない。
と、考えると事象の研鑽は専門家しまい、多くの年月を必要とする。
今、私は後悔をしているわけだが、それを踏まえて進むしかないと腹を括っている。
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