上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2015.04.08 物部氏素描。
古代において、重要な氏族は、安曇氏・久米氏・蘇我氏・物部氏であろうと思う。
その内で物部氏は「もののふ」と称され、軍事・警察を職掌としたとされている。しかし、私は物部氏の地位は更に深いところで存在していたと考えている。

物部氏の「物」は<物の怪>の「物」であり、霊魂の領域にまで踏み込んでいる。物部氏の始祖はニギハヤヒ神と言われ、「高天原に神留り坐す皇親・神漏伎神漏美の命以ちて、皇神等の顕わし給う十種の瑞宝を饒速日尊に授け給う、天つ御祖神の言おしへ詔り給う」と先代旧事本紀にある。十種瑞宝とは、おきつ鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・足玉・死反玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品品物比礼を言い「一二三四五六七八九十と唱えつつ布留部由良由良と布留部かく為しては死人も生反らんと言い給いし、随に」とあり、呪術的な領域まで踏み込んでいる。

また、物部氏が処刑の手続きは先ず、刑部省の「録」が犯罪名を読み上げ会衆に示し、「極」が刑を執行する旨を宣し、市獄両司に伝える。両司は更に物部に転告した後、物部は「唯」と称し、剣に乗じて囚人を殺戮すると、「延喜式刑部条」にある。

そこには、物部氏が人を人が殺すと言う聖域に踏み込む立場として、特殊な役割を演じている。それは「人の生き死に」に関わる聖域で、その領域は「神」の資格で為されなければならないのだが、物部氏はその代替者として行う役割を有していたと言える。そこに私は、ニギハヤヒ神の系譜を感じる。

「日本書紀」によれば、「天の磐舟に乗ってとび降った者がある。思うにその土地(大和)は大業を天下を治めるに良いであろう。きっとこの国の中心地だ。そのとび降りた者は饒速日と言う者であろう」と述べられている。そして、饒速日尊は大和で長髄彦の妹。御炊屋姫と婚姻し、宇摩志麻治命を出生させる。その命は物部氏の祖と言われている。

この時、饒速日命と長髄彦の間で神武天皇(神日本磐余彦天皇)とのように争いが起こっていない。それは武力以外の方法で解決がなされたと考えるのが自然であろう。古代において呪術の優れた人間が優位に立っていた。例えば、この両師に重病人を回復させる呪術合戦をしたとして、その病人を治した者、また日照りで降雨の術に長けていた者が優位を占めたと思われる。それに勝ったのが饒速日でさらに、金属の製造、農業技術の巧拙が饒速彦にあったため長髄彦が
首長を譲歩したと私は思っている。

戸矢学氏によれば、長髄彦の陵墓は三輪山にあり、その鎮魂名は大物主と述べている。大和先住民は猾族(うかしぞく)や磯城族(しきぞく)、名草戸畔(なぐさとべ)、土蜘蛛、国巣族などが先住しており、長髄彦はその首長であった可能性は濃い。それは長髄彦が戸矢氏の言うように鎮魂名が「大物主」であったことから類推できる。大和民族の氏神が大物主(大神<みわ>神)であったからである。
先に述べたように、長髄彦は妹を饒速日命に嫁がせている。それは血族を意味し、物部氏の始祖である事になる。

その後、物部氏は大和の神武勢力の主要部署から外される。「岩見・物部神社の由緒」によれば、宇摩志麻遅命は、天香語山命とともに遠征をしている。尾張、美濃・越を平定して、天香語山命は越の弥彦神社に祀られ、宇摩志麻遅命は更に摂津、丹波を経て、出雲の岩見へ辿り着く、そこに安住の地を求め永住している。
これはとりもなおさず神武勢力による先住民族の排除の説話であろう。もう一歩踏み込めば、先住民族の信仰する「大物主信仰」を排除するために、神武勢力はその根本思想である「大物主信仰」を抑圧し、「天照信仰」を定着させる布石として行われたと思われる。

物部氏はその後、内物部氏と外物部氏に分断され、外物部氏は東北や出雲に追放される。これは大和勢力の巧妙な統治政策と言える。また、その後、内物部氏は蘇我氏によって滅ぼされ、また蘇我氏は中臣鎌足と中大兄皇子によって排除される。所謂、大化の改新であるが、私は律令制の制定による戸籍の整備にはこの宗教改革が大きく左右していると思っている。大和朝廷はこの巧みな統治方法によって、大和を中心に律令制度を確かなものとして行し、地方豪族をも取り込み、政治形態を確固たるものにしてゆく。物部氏はその政策に破れ、氏神を追放されて、「天照大神信仰」に変えられていった。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://nigihayahi91.blog65.fc2.com/tb.php/854-2de96f83
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。