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2011.06.21 神武東征再考
南九州に於ける安曇族と隼人の関わりにゆきずまり、その検証を棚に上げ、先へ行こうと思う。
神武一行は日向をでると、先ず宇佐へ寄る。
「記・紀」では非常に簡単に宇佐津彦と宇佐津姫による歓待を足一騰(あしひとつあがり)宮で受けている。そして、服従の証として、天種子命と宇佐津姫を血縁させている。「記・紀」の記述はそれがけである。
しかし、後に宇佐は宇佐八幡宮を中心に隼人征討、神功皇后の三韓征伐、道鏡事件、豊国かんなぎ、聖武天皇への金や銅の奉献など大和朝廷との関わりは重要な事件が多い。
「紀・紀」の編者は当然、それを勘案に入れて、神武東征の初めとしたのであろう。私は「記・紀」が創作の書とされているのを認めるわけではないが、この「記・紀」の編者達の見識の深さ、広さに感嘆の念を感じざるを得ない。神武が創作の産物であると仮定しても、その裏けは史実の反映と見て間違いはないと思う。
次に神武一行は潮の流れに逆らっても、岡湊へと一年滞在する。岡湊は遠賀川河口に位置し、古代北九州の要ともなる地域である。朝鮮半島との関わりが多い所であり、宗像郷や安曇郷があり、海人族の本願地でもある。そして、特に記すべきことは、高良大社と英彦山神社、香春神社との接点があることです。
高良大社は物部氏の氏神である高良玉垂神を祀る神社で、高良玉垂神はニギハヤヒ命を比定する。また、英彦山神社の祭神は天忍耳命である。これは北九州系の神々の要所なのです。
私は北九州の命達は朝鮮と北九州の先住民族の混血と考えているので、南九州系の王朝との接触は非常の大切な事項であると考えます。神武天皇が一年の月日を費やして、岡湊に滞在した根拠はそれらの人々との情報収集や協議に費やされたと思われます。

文化の視点から考えても、中国と朝鮮を比べてみてもその影響力は,古代において、中国の文化がその影響力が上であろう。日本の学界では朝鮮文化をうえに見る。確かに距離的に言えば、朝鮮半島の方が近いといえる。その頻度は江南に比べれば比較にならないだろう。神話は山幸彦が海幸彦を征服する。古代において、山と海では海の方が文化的な影響力が強かった。山と言えば、山人、ソマビト、金工、鬼等どちらかと言えば異種の印象がある。それなのに、「記・紀」では山幸彦が海幸彦を服従させるのである。私はいつもこの話は本末転倒ではないかと思っていた。つまり、「記・紀」の編者はそんなことは百も承知で編集しているのである。朝鮮と江南の造船力でもその国の形態から考えても、江南の方が能力は上位に立っているのは素人が考えても解ることである。それなのに朝鮮の勢力を江南の勢力を征服させるという物語を創ったのは、初期の天皇の勢力を八世紀には北九州系の天皇が駆逐したと言う事実を語りたかったのだが、その証拠が提示できないがため神話と言う形を採ったとしか、私には考えられないのである

再三、私は滝川政次郎さんの唱える江南黒潮渡来説に賛意を表してきた。北に安曇氏、南に隼人説は南にも安曇氏であろうと考えています。
「記・紀」の記載する、ニニギ命の降臨は日向の高千穂の襲の二上山から、笠沙へと行き、そこで大山祇命の娘・神阿多鹿葦津姫と血縁を結び、三代目の神武天皇までを取り上げます。
ニニギから神武まで薩摩と日向には主要な神社が存在しているのですから、「記・紀」の神話は初期天皇の伝承を南九州に比定しているのはそれなりの根拠があると私は思います。江南から(私は・呉・が本願ですが)渡来した安曇族の首長がニニギであろうと考える者ですが、当然、首長一人で為せることは無理でしょう。多くの配下がいたはずです。しかし、上層部は根拠が見出されるのに、配下の存在が見当たらないのが不思議です。江南の呉にしろ越にしろその造船技術は高度のものがあるのですが、そこには船を動かす漕ぎ手がいなければなりません。その頃の書物には少なくても百人ほどの船員がいたと記されています。その外、官吏や軍人、技術者を含めれば相当数の乗船員がいたはずです。とすれば、笠沙に上陸した配下には江南人たちがいたと考えても間違えではないでしょう。しかし、不思議なことにそれら乗船員の軌跡が皆無なのです。そんなことはありえないのです。それに対する視点が欠けていたとしか考えられないのです。
私はその軌跡を見つけたいと思います。

先ず、大きな括りとして、倭がある。次に江南の倭、朝鮮の倭、そして日本の倭であろう。江南の倭は苗族が初めで、百越、呉、楚、蜀などに分かれる。そしてそれが朝鮮南部、九州の倭、大和の倭と拡散して行く。
私はそういう認識で倭を捕らえ、論理を展開いて行こうと思っています。

「古代海人の世界」(谷川健一)より。
安曇氏の末裔にも、鱗のある者が代々生まれると伝承されている。「履中紀」に、目にふちに入墨うぃしたものが安曇目とよばれたとあることから、安曇氏の先祖に入墨をしたものがあったことが分かる。同じ例で、「神武記」
には、大久米命が「さける利目(とめ)」をしていた、とある。大久米命は薩摩半島にいた久米部と関係があり、おそらく隼人系の海人であったろう。このことは、鹿児島県加世田市から「久米」と墨書した土器が出土していることからも確認できる。

わたしはこの文章から安曇氏と隼人そして大久米部との関わりを見て、ニニギ命から神武天皇にいたる系譜が安曇氏との関わりを濃くしているのを見る。これは神武東征には大変重要なことだと思う。

江南の貴種・ニニギ命が隼人の首領大山祇命の娘・神阿多鹿葦津姫を娶り彦火火出見命を生む。
一方、ニニギ命に随伴してきた海人・安曇族もまた隼人の女と融合して、軍団・久米族を形成する。安曇族は明らかに大山祇系の陸戦部隊と阿多隼人と結びついた海人族系・久米族を形成した。塩土老爺を長とした安曇系海人は太平洋黒潮の流れを利用して、四国、中国、近畿へと交易を行う。そこで仕入れた情報を塩土老爺へ集約して、神武東征として結実して行く。



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