上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
戸矢学説は学会では異端の説とされるが、私は嘱目する説であると思う。

スサノオウ命の詔で五十猛命は淡路島を経て河内に上陸して、畿内全域を征した。・・・・・五十猛命は大和へ移され、そこで亡くなる。墓陵は石上・布留山・鎮魂の御名は布留御魂大神。
宇摩志麻始命は、伯父・長髄彦を謀殺し、磐余彦に帰順する。長髄彦の陵墓は三輪山である。鎮魂の御名は大物主神である。

又、物部氏は縄文時には土器製作に従事していたとあり、「延喜式刑部」で<処刑の手順は先ず刑部省の「録」が犯罪名を読み上げ会衆に示し、「丞」が刑を執行する旨を宣し、市獄両司に伝える。両司はさらに物部に転告した後、物部は「唯おう」と称し、剣に乗じて囚人を殺戮する>と記している。

私はこの事実が物部氏は神との仲立ちをする中臣であり、縄文時代に土器を製作し土偶を造っていた司祭的な呪術者ではないかと推察する。それは物部氏がその後、軍事的な職掌に繋がったと思われる。
そして、長髄彦と物部氏との共通点が窺われ、また大神神社との関わりも想像される事になる。
私は予てから、縄文時代から日本列島に居住していた所謂、「和族」が賢くも、自らの血筋を伝える英知として母系でそれを存続させたと考えており、確かに文字を持たない人種の知恵と思っている。その始祖が物部であったのかもしれないと仮設している。
その点、北九州の物部と大和の大物主神は縄文時代からの先住民であったと考える。




スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://nigihayahi91.blog65.fc2.com/tb.php/884-148bed94
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。