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私は古代・日本の倭(和・わ)族については予てから苗族が関わっていると思っている。
そこでここでは、簡単な苗族の経歴を話してみたいと思った。

苗族は元々、黄河流域に住み着いた狩猟民族で漢族に滅ぼされて、一部は南方山岳地帯に逃れ、他は長江・洞庭湖流域に移住させられた。後に、世界的大洪水(BC2200年頃)でその災害から逃れ、再び黄河流域に戻ったが、矢張り漢族に敗れ去った。

それは中国の故事に記された「琢鹿の戦い」の黄帝とシユウ(三苗族)の争いに描かれている。
当初、シユウは雨師・風師と81人の兄弟(金属を扱う邪神)の奮闘で劣勢に陥り、困惑した黄帝は天の西王母に助力を得る。西王母は魃女神を天下らせ、煙幕を張ったシユウの術を破って黄帝を勝利させる。
この神話は漢建国神話である。その後、苗族は再び、山岳地帯と洞庭湖に退散する。洞庭湖地帯に移住したのが「倭族」と呼ばれ、春秋時代には「百越族」と名付けられ、「呉や越」を建国し「楚」を生む。

「猪甘部考」の滝川政次郎師によれば、その呉は越との戦いに敗れ、朝鮮南部や南北九州に移住する。北九州に着いたのは安曇族で南九州に着いたのは隼人族だと記述している。
しかし、隼人は通説では渡来民族とは思われず、隼人の命名は八世紀に大和朝廷に服属した會族(熊襲族)の事で、私の仮説では大隅地方に先住していて「會族」でそれを後の「山の隼人」と呼ばれ、野間半島の隼人は「海の隼人」と名付けられたと考えている。
神話的には、「山の隼人」は大山祇神で「海の隼人」は吾田津姫を擁する吾田族だと考えている。神話で言う「吾田津姫」が称する<大山祇命の娘>は會族の傍流と考えると得心がゆく。
多分、野間半島に漂着したのも、又、安曇族であろう。その後に南九州には安曇族の名は見られないが、ニニギ命に付き従ったのが久米氏だったのを思うと、安曇氏は隼人と混血して「久米」に改名したのだろう。
その理由は二つ考えられる。一つは、渡来民族が漢族の追求を恐れて、先住民族の計略・母性継承の政略に乗って「久米」を名乗ったの戸言う説と、縄文後期に「加世田市」に出土した<久を印した土器片>はその証左だと思われる。

「黄色葉の精霊」(ベルツナ一ク著)は<ピ・トング・ルアング族>について書れたものだが、そこに苗族ついての記述がある。
インドシナにまで追い詰められた苗族は文字を持たず、狩猟を主に生活していて、その族長(その名はチン・ツァイ)は動物の習性に長けていて、水飲み場や鳴き声、樹木にこする臭いの研究などを知っていて簡単にそれらを捕獲してしまう。又・族長の資格をして、祖先の記憶を頭の中に入れておかなければならない。その驚くべき記憶力と数は驚嘆に値する書いている。
その神話にいは「スサノオスセリ姫の黄泉談話」「洪水神話と国産神話」や「天女の逸話」など「古事記」に類似するものが多い。

私はここにかなり希薄になった苗族の「血」を感じるのは考えすぎだろうか。

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